Thursday, November 22, 2007

インドネシアにおけるイスラーム系政党の発展過程

インドネシアにおけるイスラーム政党の発展過程をみると、20世紀初頭に植民地支配に対
抗する急進派的民族主義団体としてインドネシアの政治構成は4つの大政治の勢力のグループに分かれていた。
伝統派民族主義、 ②近代派グループ、③イスラーム民族主義、④保守派民族主義のである。

1905年~1909年 :インドネシアにおける最初のイスラーム大衆団体として「イスラーム商業同盟」が成立。なぜ、同盟?当時東インドにおいて、活発に活動していた華僑(かきょう)に同じムスリムであるアラブ人と原住民が対抗するため。1909年~1910年 : 「イスラーム商業同盟」から「イスラーム同盟」の政党への発展。「イスラーム同盟」は政党になった。イスラーム同盟党はーインドネシア初のイスラーム政党―がイスラーム商業同盟のうち政治を求めたグループが成立。1920年イスラム同盟分裂。イスラム同盟セマウン派―共産主義を目指すー  とアグス・サリム派(穏健派)の対立。1923SIPSIのインドネシア・サレッカト党となった。SIから共産主義派が分裂。左傾化の激しいオランダからの独立を叫ぶPKIの成立。1908年 : ナショナリストのグループとして「ブディ・ウトモ」、オランダからの民族独立を目指し、ジャワ人の社会的地位を教育を通じて同上させようとした。(近代派グループ)官僚貴族の間、特権階級に限って成立。ブディ・ウトモが民族覚醒が目的

1912 : ムハッマディヤの成立   ムハマディヤの主張としては、当時、インドネシアにおけるイスラーム社会がまだ完全に出来ていない、という危機認識に基づいたコラーンとスンナから勉脱しており、イスラーム教徒の不幸がそこに起因する、従って原典に帰ってアッラーの教えを正しく学び、広め、実践することによって個人の幸福と安寧および社会福祉、民族と国家の繁栄がもたらされる、というものである。イスラーム社会はまだ完全に出来ていないし、イスラーム団体の分裂、教育の低さに危機を感じる。ムハマディヤの主張は コーランとスンナ(預言者の言行)のイスラームの原典へ回帰し、正しい法の解釈を実践それによって社会福祉の同上、合わせて、イスラームの思想と近代文明の統合による発展を目指す。そして、―実用的技術、知識を調和していきるための道具として教育を重視― 教育による言語障害の除法。

1926年:NUが成立「イスラーム法学者の再生を目指し、宗教教育と共同体の福祉同上を目指としてジャワでウラマーが成立した。なぜ、NUができたのか?背景としては、トルコにおけるカリフ制の廃止に伴う世界イスラーム指導者会議の開催に際して、他の国からのインドネシアの指導者による加入を恐れた。伝統的なウラマー達が自分たちの指導力を保つことを目的として結成。1927年:  インドネシア国民党」が成立―世俗的民族主義大衆団体としてー。スカルノが伝統派民族主義者の大同団結を図って、オランダからの独立を目指としてナショナリストの統一を目的として結成。1937年 : 日本の占領下、軍政下において、日本軍が資源や人材の確保をスムーズにするためイスラーム指導者を政治に引き立て、その中で力を付けたイスラーム指導者が団結―MIAIイスラームの大同組織イスラーム最高会議(MIAI)の議長になったナフダトル・ウラマの指導者ハシム・アシューリ)。1945年 さらに、ムハマディヤ、NUなどの1943年、日本軍が主なイスラーム系大衆団体を日本軍が統合作った「マシュミ」させてできたのが、1945117日に政党となった。イスラーム組織の統合。

1951年マシュミ党のナシール内閣(ムハマディヤ派、近代イスラーム)、スキマン内閣(NU派、保守派)におけるムハマディヤとNUの対立。1952年、ウィロポ内閣において、NU派がになってきた宗教相のポストをムハマディヤ派に取られたことにより完全に決裂、NUがマシュミ党から脱退。1960年、マシュミは、西スマトラの反乱の汚名を着せられ、(1958年シャフルディン、ナシール)とダルル・イスラーム運動によって反乱、スカルノにより「非合法化」、活動禁止され解散する。

                                     

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